夏期休暇―号外―
夏休みと言えば、やりたいことリストを初日(厳密には、夏休みの1週間前ぐらいに作るのがたいていの場合のような気がするが)に作り―夏休みに心躍らせることによるキャパオーバーなタスクを作ることが常であるわけではあるが―そして詳細な計画を立てるのが習慣となっている気がする。
さて、今年はなにをしようかと考えると、とりわけ読書と語学をやろうと思うのである。大量に家に眠る積読本を消費することが夏休みの最大のテーマである。そして、そろそろ語学ぐらいできなければという強迫観念がある。驚くほどに。
以下に、読書リスト、文学作品リストを列挙しておく。必読。全17作品。
―平野啓一郎『かたちだけの愛』
―阿部公房『砂の女』
―谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』
―谷崎潤一郎『卍』
―谷崎潤一郎『少年滋幹の母』
―フォークナー『響きと怒り』
―フォークナー『サンクチュアリ』
―E・M・フォースター『果てしなき旅』
―オスカー・ワイルド『ドリアングレイの肖像』
―トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』
―ユイスマン『さかしま』
―マンディアルグ『すべては消えゆく』
これに加えて、大江健三郎、三島由紀夫は全作品読破計画の始動、2~3作品は読了したい。中上健次『岬』『枯れ木灘』『地の果て 至上の時』『軽蔑』もリスト入り。
次は、哲学の方面。
カント『純粋理性批判』
これらは最低限、読書会によって一応の読了を目指す。そのために、四月から、さまざまな入門書に向き合ってきた。期待。
これらの著作を読む理由。
現代思想に向き合うためである。10月くらいから原典にあたることにしているが、「文學界」2022年8月号での小泉義之による「入門書の愉しみ」という論考で、まずは原典に向き合うことから始め、そこでの疑問や問題意識と向き合う形での入門書・解説書との邂逅を提案されていたので、一度は実践してみようと考えている。時間と余裕があれば、レヴィナスやドゥルーズあたりに挑戦してみようと考えている。
とはいえ、現代思想の外観について勉強しておきたい欲もあるので、千葉雅也『現代思想入門』、岡本裕一朗『フランス現代思想―構造主義からデリダ以後へ―』、浅田彰『構造と力―記号論を超えて』も視野に入れておきたい。
さて、最後に語学。
ドイツ語、フランス語、英語。
まずは、ドイツ語から。ドイツ語は初修済みなので、『ドイツ語中級問題100題』、マルクス『共産党宣言』、カント『永遠平和のために』といった少ない分量ではあるが購読していきたい。秋学期からのカント『実践理性批判』の講読にむけて。
次に、フランス語。未履修なので、まずは初級文法から。その後、問題演習をする形で文法を体得。最後に、蓮實重彦『フランス語の余白に』、これがメインかつ、これがやりたいからフランス語をやるとも言える。秋学期からのフーコーの論文講読に向けて。
最後に、英語。専門なので結果が求められる。洋書の講読中心にやろうと思う。プラトン『饗宴』を英語で読もうかなと計画中。読了するのは、コージェブ『ヘーゲル読解入門』、ディケンズ『大いなる遺産』、ドイル『バスカビル家の犬』は視野に入っている。
ざっと、ここまで書いてきたわけだが、できるだろうか。やるしかない。日々、結果を報告していきます。
第六回 私は最強
脳内、私は最強である。現実という言葉が脳内での出来事に使われたなら、と仮定したくなる。
現実という言葉は、一般的に、眼前で繰り広げられた事象のこと、のような意味でつかわれているように思われる。ここで一つの問いを立ててみたいと思う。眼前で繰り広げられた事象は必ず脳内で処理される過程を通るわけである。ここで考えてみてほしい。「想像」、直接的に、ただ、こうは言いたくは無いのではあるが「妄想」という現象も脳内で処理される過程を通っている。現実も「想像」も脳内で処理する過程を通る点では同じということではないだろうか。眼前で起きていることが、脳内で何のバイアスもなく起きた事象そのもので理解、処理されていると言えるのだろうか。現実が現実であることの証明ができるというのだろうか。答えは否であろう。勘違いという事例を考えてみればよいのである。あなたの思う事実は事実ではなかった、想像だったという風に言い換えられる現象だ。
事実、現実と「想像」を分かつ要素があるとすれば何なのだろうか?動画や写真で残せるものが現実だろうか?では、動画や写真で残っていない現象は事実ではないのか?
要は、「想像」、いわゆる「妄想」を正当化したいだけなのである。
私の最強史、本編。
理想の大学生では私はすでに友人に加えて恋人の一人はいる。いつかの講義でふと声をかけることから始まる小説的純愛ストーリーを紡ぐことになっている。そして、文字通りバラ色の大学生活、誰もがうらやむ学生生活を送っているのである。
しかし、どうだろうか。「現実」では・・・。言わずもがなの結末である。声をかけようにも声をかけられず、また、その余裕もない。傷つくことに恐れる典型的な学生生活。充実していない系大学生である。ただ、今の生活も十分に充実している。なにか、自分にとって何か非現実的な、無駄な要素が欲しいというだけなのである。なくても良いものが欲しいのである。刺激を求めているのだろうか。
恋人がほしいなと切に願う生活はいかがなものなのであろうか?
目的が「それ」ではいけない。恋人である相手が好きなのか。相手だから好きなのか。その二択を選び間違えてはいけない。
願うことで、叶わぬ非充足感なるものに浸食される自己を持つくらいであるなら、できるなら願わぬことが最善策なのである。
そう暗示をかけて、時機を待つ。ただただ待つ。人事を尽く「さず」天命を待つ。1年、2年、気付けば卒業か。
第五回 私的文学論
「私的文学論」とうるさく、仰々しい題をつけたわけであるが、そこまで深くには立ち入らないし、そこまで体系的な「私的文学論」があるわけではない。表面的ではあるが、最近の論考をまとめていくことにしたい。
この一つの命題について私的な文学論を展開していくことにする。
「文学は必要か、否か」
私は文学部の学生であり、文学作品が好きな身である。ゆえに、文学は人生にとって必要なものだと思っている。このただ一つの主張から始めたい。
最近、森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』を読んでいる。以前のブログでも言及した通りである。途中段階ではあるが、「幸せとは、幸せを探すことにある」というようなセリフを登場人物に語らせる場面があった。
この例から述べたいのは、文学は人生におけるヒントを与えてくれるということである。作者が登場人物に語らせる文言一つ一つには意図がある、と仮定するなら、作者が人生に対する羅針盤のようなものを、文学を通して与えてくれるとも言えるかもしれない。作中の一つ一つの文言に目を向け、精読し、考えることで文学が問題提起し、主題にするテーマについて考えることができるのだと思う。
ふとした一文からあなたは人生のヒントを得ることができるかもしれない。そこに文学が人生において無駄なものではないと言える所以であると思う。必ずしも必要ではないが、決して不要ではない。
実益が見込めないものであっても、まわりまわって実益となることがある。それが文学なのかもしれない。いささか、文学を「実益」という観点で捉えるのは気に食わないが、そういう捉え方もできるということを示しておく機会としたい。
「一見、必要ではないと思えるものが、人生を豊かに、余裕のある人生を作ってくれる」と思う。
第四回 軽い恋愛談義みたいになってしまって
私は、森見の作品を過去、一作品だけ読んだことがある。『太陽の塔』。森見の評判、本の帯を見るにかなり高い評価がされている作品なのだと胸を躍らせて手に取った。しかし、どうも好きになれなかった。結末が好きになれなかった。というのが正直な感想であった。
しかし、森見は世間で評価され、有名な作品がある。『夜は短し歩けよ乙女』がその一つと言えるだろう。読了後の感想をこのブログに書き記そうという魂胆で書いているわけではない。今日から読み始めたわけであるが、心に残った一節を紹介しようと思い立った次第である。
「自分が惚れた男と結婚するのと、惚れていない男と結婚するのとじゃあ、惚れてない男と結婚する方がいいよね」(p.34)
このように登場人物に語らせている。この登場人物の考え方は非常に適格だなと私に思わせた。以下のように補足した(以下、要約)。
好きになるということは、好きという「付加価値」が相手についている状態。その状態がいつまでも続くはずもなく、「付加価値」はいずれ無くなる。ならば、好きという「付加価値」のない者をはじめから選べばいいのである。
この主張に全面的に肯定できるほどの社会経験もしていない。加えて、一生涯、一人を好きでいられることが可能だと考える私にとっては肯定しがたい訳である。
しかしながら、付加価値がついた人を好きになることは、付加価値が無くなれば好きではなくなることを意味すると思っている。相手の本質、核、普遍の部分を好きになっていないからである。変わらない何かを好きになるべきだと思う。
そういう人が私にも現れてほしいなと切に願う今日この頃である。
無意識に魅了されている気がして、結果手に取ってしまう森見の作品。彼の作品には魔力があると思う。奇想天外な発想と知的語彙の数々。今までに読んだことのない類の作品群を生み出す森見の作品にこれからも魅了されていくことになりそうだ。
今後、読了後の感想を書いてみたいと思う。併せて、『太陽の塔』の再読、『熱帯』も読んでみたいと思う。
第三回 奇妙な文章
最近、ブログを再開。ありがとうございます。「別人か」。でも、「たまに現れるなー。表のテイスト」となるかも。そんなことはさておき、まじめにやるのもさておき、書きたい話題も一つ残してさておき。一つの話を書こう。別人格?今後そんな話題、出できやしません。詐欺やんって?
そんなことはさておき。
最近、大学が始まりましたよね。そんでね、この前大学で。危ない危ない。脱線してた。「いーや!本線見えてないから、脱線かも察っせん!」全力でツッコんでくれたあなた、全力でありがとう。まぁ、そんなことはさておき。
最近、バイト始めたんすよね。中華のバイトでね、出前やっとんで。おっとっと。脱線や。
中華のことはさておき。
最近、中華鍋振ってんすよ。「え?素振りなん?」そう、小声で、映画中の私語くらい小声でツッコんでくれた人ありがとう。いやいや、脱線。中華鍋のことはさておきたくないけどさておき。一般人が、家で中華鍋?奇妙。奇妙。圧倒的奇妙。そんなことはさておき。
最近、「ちょっと、待てー」と千鳥ノブ並みのツッコミありがとう。え?「奇妙。奇妙。圧倒的奇妙。」?「いや、カイジやん」そのツッコミが降ってきたあなた、簡単です。最近、そんなことはさておき。ありがとう。そんなことはさておき。
え?本線?まぁまぁ、落ち着いて。「最近・・・ありがとう・・・そんなことはさておき・・・最近・・・・・・・・」そんなことはさておき。
題名「最近、ありがとう、そんなことはさておきの和え物」
そんなことはさておき、の分量が・・・。
作者、匿名希望
編集、匿名希望
無理やり和えてない?そんなことは、さて、おいておこう。
再読したらわかる。「かいさく」やん。たぶん、作者、狂ってる。当たらずとも遠からず。
感想、お待ちしております。
改作、怪作。
あなたのもやもや晴らします。聞けばその症状は治りますよ?劇薬ですから。ただ、自分でわかった時の快感は味わえませんが。
???「え?直前二行にも既視感が・・・」
「それから」
「チョコレートの惑星(和訳)」
文体、展開、内容、迷走中。試験運転。
第二回 未知なる憧れの場所
文章の最後に「私的ギャンブル論」という大学の講義を開けそうな私論が入り込んでいいる。
全1115字。
今日が記念すべき第一回。そこは、中学の頃からのめりこんだ「遊戯」の通が通い詰める場所なのである。ただ、さらなる通はそこを利用しないと聞いた。マンションが決闘の場所になることがあるからである。思い返せば、私もマンション(アパート)で集まってアナログで前時代的な「卓」を4人で囲んでいるではないか。それも深夜にも及ぶ「卓」を。
しかし、私が求める決闘を求め得ることができるのは通が通いつめる「そこ」だけなのである。レートが脳裏によぎり、勝負をも左右してしまう。そんなヒリヒリするような精神状態で決闘することを求めているのである。
アルバイトの出前先であったことが、今日の第一回目を呼び込んだのである。勿論私が決闘の主体にはなり得なかった。しかし、未知なる憧れの「そこ」の扉を開けたときの緊張感は私ごときの語彙力では当然描写し得ないほどであった。タバコの煙と吸い殻が乱雑に置かれていた。一体「そこ」でどれだけ打っていたのか、と疑問に感じられるほど、精神安定剤のタバコが乱雑に吸い殻に積み上げられているほどであった。
四人の視線は卓に集まり無言のプレッシャーがジリジリと、その決闘に無関係な配達員の私に迫りくるようであった。
ただ、当然ながら、次の出前先に急がなければならないので、その勝負を見届けることは出来なかった。
麻雀、雀荘は特別な魅力を私に感じさせる。雀荘で行われる賭け麻雀がそんなに楽しいかと聞かれれば私はいつもこのように答えることになるだろう。パチンコや競馬、競艇などギャンブル全般に言える事であろう。「お金を「獲得」することに面白さはそこまでない。面白さの根源は「欠如」である。欠如が生む緊張感なのである。掛けたお金と希望が欠如することとの闘い。失うことに対する防衛本能たるやすごい。その欠如が判断を鈍らせ、誤りに導くこともある。大げさに言いすぎだが「死線」を潜り抜けるような気分を求めているにすぎないのである。最後に、「獲得」ではない、「欠如」との闘いに面白さがあると言いたい。超実力の世界が生む偶然もまた面白さのスパイスである。」と。時に不条理に、一瞬で失うから面白いのである。
そんな戦いが繰り広げられる雀荘は何とも魅力的である。四人の「死線」のくぐり合いが直に戦うわけだからである。それが対人ギャンブルの最大の魅力で、麻雀が打ち手の心に住み着き、一生手放すことのできない遊戯と化す要因だと思う。
私にとって、麻雀牌がぶつかり合う音は、時に風鈴のような身体を「冷やす」音色で、時にはストーブのような灼熱の「熱風」を身体に送り込む。
獲得のためのギャンブルはやめたほうが良い。「欠如」とのせめぎ合いを楽しむのがギャンブルなのだから。
第一回 ミスチル、夜にふと聴きたくなると同時に
全1295文字
ミスチルの曲を聴く。
聴きたくなる。それも夜。何もすることが無くなったときに。現に今聴いている。聴いてはしみじみする趣味なんです。いろんな意味で寂しい夜に。時に、寂しさを煽ってくる。「寂しい」なんて言葉、昔は嫌いだっただろうに。使うようになってしまった。分かるようになってしまったらしい。
歌詞に共感する時もあれば、分からないときもある。実感が追いつかないから。文学的でもある歌詞を真剣に読解したらかなり面白いかもしれない。読解と言ってしまうあたり、この文章の作者は自分というのが分かる。読み解くでいいではないか。どうして、わざわざ二字熟語を使う必要があるのだろか。なんなら、全部ひらがなでいいのでは。「柔らかい」文体。
思考は大人に近づく、いや、子供から離れている気がする。もっと正確に言うなら、昔から変わっている。言葉遣いもそう。考え方も。価値観も。小学生の時に何度も言われ、気にしていた、「他人の気持ちになる」こともそう。多少は出来てしまう。年を重ねるにつれて「変わってしまう」。変化、と言わなかったのは気にしていたからか(二字熟語に変換して分かりにくくする習性があるもので)。
ミスチルの曲もそう。分かってしまう。切なさや、つらさ、応援してほしくなることも。小学生の時は、歌詞が分からないから、と音楽を遠ざけていた。リズムや音楽の心地よさが好きなだけでも十分だと思うが。当時の小学生の私はそうは思わなかったらしい。この時から、「大人」になる旅路が始まっていたのかもしれない。
でも、昔のように理性を見失うときもある。小学生の私が持ち合わせなかった感情と事象がそうさせる。一見、冷静さを保っているようにふるまっているつもりでも、舞い上がっていたな、と俯瞰で見れば後で分かる。
他人の気持ちが分かるようになる、とは何を表すのか、なんてことを考えてみようではないか。身体の中に閉じ込められた自分、精神的な自分がいるわけである。その自分に加えて、俗に言うなら、幽体離脱したもう一人の自分が他人に入り込むということ、が他人の気持ちを考えるということである。哲学的な言葉遣いを用いて、前述の事象を一般化、抽象化することを試みたい。自分の眼前に「自己」と「他者」の存在が現れたということだと思う。つまり、物理的にしかいなかった他者が、精神的にも自己に内在化したということだ。人生の登場人物が増えた、ということと言えるだろう。単に、自分の人生だけを生きれば良いという段階が一段階上位に移行したということである。「他者の人生も同時に生きなければならなくなった」のだ。生きるというのはそういうことなのではないだろうか。
子どもから離れる(大人になるということではない)、それは、私が望むと望まないと進むことではある。しかし、私は、子ども期続編を人生に期待している。歩道の縁石を歩き続ける遊びや、坂の下にある交差点を自動車の確認なしに全力でこぎ去ったり、小さい橋の手すりの上を歩いたりした、輝くあの日々に。
急いて子どもから離れる必要があるのだろうか。
子どもから離れてしまい続ける日々の代わりに。無敵の時代。