哲本哲思

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第一回 ミスチル、夜にふと聴きたくなると同時に

全1295文字

 

ミスチルの曲を聴く。

 

聴きたくなる。それも夜。何もすることが無くなったときに。現に今聴いている。聴いてはしみじみする趣味なんです。いろんな意味で寂しい夜に。時に、寂しさを煽ってくる。「寂しい」なんて言葉、昔は嫌いだっただろうに。使うようになってしまった。分かるようになってしまったらしい。

 

歌詞に共感する時もあれば、分からないときもある。実感が追いつかないから。文学的でもある歌詞を真剣に読解したらかなり面白いかもしれない。読解と言ってしまうあたり、この文章の作者は自分というのが分かる。読み解くでいいではないか。どうして、わざわざ二字熟語を使う必要があるのだろか。なんなら、全部ひらがなでいいのでは。「柔らかい」文体。

 

思考は大人に近づく、いや、子供から離れている気がする。もっと正確に言うなら、昔から変わっている。言葉遣いもそう。考え方も。価値観も。小学生の時に何度も言われ、気にしていた、「他人の気持ちになる」こともそう。多少は出来てしまう。年を重ねるにつれて「変わってしまう」。変化、と言わなかったのは気にしていたからか(二字熟語に変換して分かりにくくする習性があるもので)。

 

ミスチルの曲もそう。分かってしまう。切なさや、つらさ、応援してほしくなることも。小学生の時は、歌詞が分からないから、と音楽を遠ざけていた。リズムや音楽の心地よさが好きなだけでも十分だと思うが。当時の小学生の私はそうは思わなかったらしい。この時から、「大人」になる旅路が始まっていたのかもしれない。

 

でも、昔のように理性を見失うときもある。小学生の私が持ち合わせなかった感情と事象がそうさせる。一見、冷静さを保っているようにふるまっているつもりでも、舞い上がっていたな、と俯瞰で見れば後で分かる。

 

他人の気持ちが分かるようになる、とは何を表すのか、なんてことを考えてみようではないか。身体の中に閉じ込められた自分、精神的な自分がいるわけである。その自分に加えて、俗に言うなら、幽体離脱したもう一人の自分が他人に入り込むということ、が他人の気持ちを考えるということである。哲学的な言葉遣いを用いて、前述の事象を一般化、抽象化することを試みたい。自分の眼前に「自己」と「他者」の存在が現れたということだと思う。つまり、物理的にしかいなかった他者が、精神的にも自己に内在化したということだ。人生の登場人物が増えた、ということと言えるだろう。単に、自分の人生だけを生きれば良いという段階が一段階上位に移行したということである。「他者の人生も同時に生きなければならなくなった」のだ。生きるというのはそういうことなのではないだろうか。

 

子どもから離れる(大人になるということではない)、それは、私が望むと望まないと進むことではある。しかし、私は、子ども期続編を人生に期待している。歩道の縁石を歩き続ける遊びや、坂の下にある交差点を自動車の確認なしに全力でこぎ去ったり、小さい橋の手すりの上を歩いたりした、輝くあの日々に。

 

急いて子どもから離れる必要があるのだろうか。

 

子どもから離れてしまい続ける日々の代わりに。無敵の時代。