哲本哲思

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第六回 私は最強

脳内、私は最強である。現実という言葉が脳内での出来事に使われたなら、と仮定したくなる。

 

現実という言葉は、一般的に、眼前で繰り広げられた事象のこと、のような意味でつかわれているように思われる。ここで一つの問いを立ててみたいと思う。眼前で繰り広げられた事象は必ず脳内で処理される過程を通るわけである。ここで考えてみてほしい。「想像」、直接的に、ただ、こうは言いたくは無いのではあるが「妄想」という現象も脳内で処理される過程を通っている。現実も「想像」も脳内で処理する過程を通る点では同じということではないだろうか。眼前で起きていることが、脳内で何のバイアスもなく起きた事象そのもので理解、処理されていると言えるのだろうか。現実が現実であることの証明ができるというのだろうか。答えは否であろう。勘違いという事例を考えてみればよいのである。あなたの思う事実は事実ではなかった、想像だったという風に言い換えられる現象だ。

 

事実、現実と「想像」を分かつ要素があるとすれば何なのだろうか?動画や写真で残せるものが現実だろうか?では、動画や写真で残っていない現象は事実ではないのか?

 

要は、「想像」、いわゆる「妄想」を正当化したいだけなのである。

 

私の最強史、本編。

理想の大学生では私はすでに友人に加えて恋人の一人はいる。いつかの講義でふと声をかけることから始まる小説的純愛ストーリーを紡ぐことになっている。そして、文字通りバラ色の大学生活、誰もがうらやむ学生生活を送っているのである。

 

 

 

しかし、どうだろうか。「現実」では・・・。言わずもがなの結末である。声をかけようにも声をかけられず、また、その余裕もない。傷つくことに恐れる典型的な学生生活。充実していない系大学生である。ただ、今の生活も十分に充実している。なにか、自分にとって何か非現実的な、無駄な要素が欲しいというだけなのである。なくても良いものが欲しいのである。刺激を求めているのだろうか。

 

恋人がほしいなと切に願う生活はいかがなものなのであろうか?

 

目的が「それ」ではいけない。恋人である相手が好きなのか。相手だから好きなのか。その二択を選び間違えてはいけない。

 

願うことで、叶わぬ非充足感なるものに浸食される自己を持つくらいであるなら、できるなら願わぬことが最善策なのである。

 

そう暗示をかけて、時機を待つ。ただただ待つ。人事を尽く「さず」天命を待つ。1年、2年、気付けば卒業か。