哲本哲思

読者の方々にあらゆる情報をお伝えいたします。

エッセイ:あまりにも主観的だったなという話。

自分からの視点で見たもの即一般論ではない。当たり前のことであり、理解も容易である。しかし、この事実、原則に気付き、理解していながらも、その事実、原則に反した言動を取ってしまうことがよくある。私自身にも当てはまるし、読者の方の中にも心当たりがある方はいるのではないだろうか。

自戒を込めてこのテーマをエッセイの題材に選び、執筆することに決めた。

私は大学生であり、周りの人も大学生が多い。中学からの友達もまた大学生が多い。大学生であれば、「仕送り」の問題はつきものであるし、仲間内でも話題になることがしばしばある。その際によく議論するのが、「仕送りの多寡」である。そこから飛躍して「アルバイトをするか否か」の議論になることがある。議論というより、「論争」といったほうが仲間内での議論の雰囲気を感じ取ってもらいやすいかもしれない。そこで、今回、取り上げるのが「アルバイトをするか否か」というテーマである。

私は、今日までいつも「アルバイトは大学生がするべきではない」と強く強く主張してきた。「アルバイト推進派」の友人に対して強く主張し、論破しようと試みた節があることも否めない。

では、なぜ「アルバイトを大学生がするべきではない」と主張していたのかを、ロジックを含めて以下に書いていくことにしたい。

大学生というのは一般的には4年間の時間が与えられ、その期間の中で学問を学び、知見を広めることが良しとされている。アルバイトをするということは時間を失うということに直接繋がってしまう。貴重な4年間を失うのである。また、社会人になれば、搾取の対象になり、4年後には強制的に搾取の対象となり得るのに、大学生の時期から低賃金で搾取の対象になるべきではないと考えていた。

上記の主張のロジックをから見れば、筆者はアルバイトをしなくても親の地盤で生きていけるブルジョワジーだからそのようなことを主張できるのだという、強い反論があることが予想される。しかし、その反論は少し違う。私は、ブルジョワジーでもなんでもない。奨学金を借りているし、両親は共働きである。私立大学に行くことを避けるように言われたが、なんとか通わせてもらっている現状である。

英語はどのように勉強すればいいのか

やっぱりこのブログの大本命である英語の話をしたいと思います。

私は、大学生で、やはり大学生といえばTOEICみたいなところが有りますよね。だから、やっぱり、TOEICに向けて対策していかなあかんなーと思っている今日このごろです。

でも、TOEIC対策をしようと思い至って、TOEICの対策本を買ってやろうかなとか思ったけど、乗り気にはなれませんでした。やりたいことをやりながら英語力を伸ばせるのが1番いいんじゃないかなーって思ってます。Twitterでも、毎号のTIME読破、TOEIC満点は当たり前の菊池先生も同じことを仰っておられたので。

じゃあ、自分の好きなことで英語力を上げるって何かなー?って考えたんですよね。そしたら、自分は、英文解釈系の精読が好きだなーと思ったんですよね。だから、大学受験の延長で、英文解釈系の参考書を今進めています。ちなみに、伊藤和夫『英文解釈教室』をやっています。めちゃくちゃ楽しいです。

このブログでも、英文解釈の問題としていい文があれば適宜紹介、解説までしたいなーと企画しています。

目標は、洋書を読めるようになることです。そのために、語彙力を鍛えていかないといけないのは自明の理。次回、語彙力増強のためにやっていることを紹介します。追加で、英文解釈の訓練の今後の方針も書いていけたら良いなと思っています。

では、また次回会いましょう。

大学で学んだ文学の読み方の

ある講義で、文学についての読み方を学んだ。その講義は、主には創作についての講義であるが、その時は読み方についての講義であった。

講義スタイルの話に少し脱線しようと思う。ガチガチにレジュメに沿った計画的で秩序だった講義は、個人的には好かない。教授の思うままに、雑談風に話を進めていく講義スタイルが本当に好きである。教授の思考のプロセスや話の広がり方、興味の対象など、教授の人間性が見え隠れするのが好きということなのかもしれない。遠い存在に感じる教授を身近に感じられることが大きいかもしれない。

さて、文学の読み方について学んだことを書いてみたいと思う。その教授は、良い作品というのは、複数の解釈を持ち、多義性に富めば富むほど素晴らしい作品であると言っていた。私自身、少し小説らしきものを執筆しようとしたことがあるが、多義的なストーリーを仕上げるのは非常に難しい。物語の裏にメッセージを乗せることの難しさは実感している。多義的なストーリーを書くためには文単位での多義性を含意しなければならないとも言っていた。

結論として、文学の読み方とは、多義性の研究と、その多義性を解明していくことに面白さがあると言っていた。

補足として、多義的な文章、名文を書くためのトレーニング方法として、名文を読み、名文を書き写すことを上げていた。名文家とは誰なのかを定義する中で挙げられたのが、川端康成三島由紀夫森鴎外谷崎潤一郎であった。

文学作品を読んだときの解釈についてもこのブログで書いていけたらいいなとも思う。

 

選書について

時間が有限であることは誰の目にも明らかである。ただ、「目にも明らか」であるかは議論の余地はあるかもしれないのだが…。時間を目に見える対象とは捉えないので、「目にも明らか」というのは、少々強引な表現なのかもしれない。時間は有限であることは間違いはない。人間には死という誰しもが持つゴールを迎えることになっているのだから。

そんなことはさておき、時間が有限であるとして話を進めたい。そして、話は読書についてである。とりわけここでは、選書について、それも専門書の選書について書いていくことにする。前置きとして現状を述べておきたい。

私は、大学生をしており、比較的に時間がある身分である。また、人生の夏休みと言われるような、「自由」を持った身分であることには違いない。しかしながら、昨今のコロナ禍の大学事情によって大学はオンライン中心かつ課題を課す中で大学教育を進める方針を取っている。全講義において課題が出されているので割と膨大な量である。大学生であれば共感していただけるであろう。

そんな状況である私は、入学当初、大学では読書に勤しもうと考えた。とにかく、莫大な量の読書をしてやろうと意気揚々と入学してきたのである。しかし、意外と時間がないことに気付いた。社会人の方からすれば「舐めるな!」と言われてもおかしくないのだが、実際に時間が足りないのである。タイムマネジメントにも欠点があるとは言えよう。

そこで、すべての本を読むことはできない。読むべき本、読む価値のある本を選び取り、読むことができなければ、読書がある種の徒労に終わる瞬間が訪れてしまうと思ったのである。では、どのようにすれば読むべき本、価値ある本を選び取ることができるのか。その可能性を高められるのかを考えてみた。

いわゆる知性主義的な立場を取ることになってしまうのだが、私は著者の経歴を重視して選ぶことに他ならないと考えている。とりわけ、専門書であれば基本であるであろう。何かについて論じる本において、その議論の議題が著者の専門分野であるか否かを判断することが大切だと考えるのである。

もう一つの方法として、評価の定まっていない本を読まないということである。換言するなら、新刊には手を出さないということだ。確かに、新刊がすべて評価されないとは一概には言えない。また、他人の評価基準の中で自分のその本に対する評価を定めるのはどうなのか、と言われれば反論することはできないのは事実である。しかし、一般に良いとされ、長い年月をかけて残された本というのは一読の価値があると思うのである。その本が読みつがれてきた歴史やその本をきっかけに社会が動いた等の背景があるからである。

ただ、私のような選書の仕方では、新しい本に手が出しづらく、流行に乗ることは極めて困難であることは事実である。

いわゆる古典を読むことによって過去の出来事、思考法、社会構造等を学ぶことができるのではないだろうか。古典に馴染みがない者にとっては難易度は高い。かく言う私も古典に馴染みはなく、いつも辞書を片手に、ちまちまと読むことしかできない。そこで、友人なりとグループで読書に取り組む、読書会の存在は大きいと思う。ある種の強制力が働き、また、他人が自分の読書の手助けとなることもある。だから、私は、読書会なるものを作りたいと考えている。オンライン読書会というのもなかなかに面白そうではある。

英語学習(0日目)

今日から英語学習を再開しようと思い立った。それも、朝6時に起床したその直後に。今日はなぜか目覚めが良かったし、「二度寝したら負け」といつものように自分に念じた結果、睡魔に負けることはなかった。そんなこんなあって、なぜか、ふと、英語学習を始めようと思い立った訳である。

今日が記念すべき初日。と言いたいところではあるが、なかなかうまくいくものでもなかった。受験を終えて3から4ヶ月は経ったところである。推測されるように投稿主は現在大学一回生である。受験勉強における英語学習というのは目標というものがあるのが常だった。言うまでもなく、試験問題を解くことができ、合格すること、それに尽きよう。しかしながら、私は現在大学に所属しております、受験を控えるというような身分では全く無い。従って、目標を失っているのが現状というのが正しいと思われる。

そこで、今日は0日目と設定し、大学の課題と並行して、英語学習の到達目標を決めることにした。無論、大学生の英語といえば「TOEIC」である。しかし、私は全くと言っていいほどTOEICに興味はない。だから、TOEICの試験対策をしようとも思えないのである。その理由として、TOEICの英文は読んでいて面白くない、という感想を持っているからである。題材が面白くないという印象が先行している。このようなことを言うとTOEICに向き合う方たちへの敬意が伝わらない。なぜ、TOEICが面白くないと印象付けているのかというとそもそも何度も解いた経験がないことであろう。たった一回しか受験していない。いわゆる、食わず嫌いと言えるだろう。

かと言って、TOEICに向き合おうともなかなか思えないのが現状。だから、ここは初心に戻って「大学受験」の英語に向き合うことにした。赤本や問題集を中心にこなし、英単語帳を用いて英単語を覚える。リスニングも大学受験の教材を使おうと思う。ただ、大学受験のやり方を踏襲していてはうまく行かないのは目に見えているので、工夫をして取り組んでいけたらいいなと考えている。

大学受験の長文に真剣に向き合う。量をこなす。それが目標。

 

まずは、「語彙力」と「読解力」を重点的に詰めていきたい。1ヶ月間やろうと思う。

 

参考文献(学習方針に用いた文献)

北村一真『英語の読み方』中公新書、2021。

 

毎日更新していきます。

エッセイ(5)記憶か身体か

このような状況を想像してみてほしい。

自分には付き合っている人がいる。見た目は自分好みで、性格もよく、隣りにいると雰囲気もなごむ。しかし、ある日その人は事故で記憶を失った。自分との過去の記憶や彼女自身の記憶すべてを。

ここで、彼女についてふと考えた。彼女は記憶を失い、残ったのは身体だけ。目の前にいる彼女は以前の彼女であった彼女ということはできるのか?僕らを繋いできた思い出を失ってもなお、彼女は自分の中で彼女であるのか。それとも異なる人なのか。

 

あなたならどのような解答をするだろうか。

私的には、この彼女はかつての彼女ではないが、自分の中にある記憶がなくなったわけではないので、きっと彼女のことを忘れることはできない、という結論に至ると思われる。やはり、自分の中の記憶や思い出とともに彼女は生き続け、過去の記憶の彼女は存在し続けると思う。

死ということについて考えてみてもそうであると思われる。目の前に身体はないし、生きている証はないが、記憶の中で存在し続けることは、生きていることとして考えることもできなくはないと思う。死者と新たな記憶や思い出を作ることはできないが、回想することはできる。 

ここまでくれば、生きているとはなにか?というような話題に展開していくだろう。

こう考えるのはどうだろうか?「時間を共有できること」生者であれば当然同じ時を共有することができる。死者であれば、過去という同じ時間を記憶の中で共有することができる。

ただ、この考え方にはかなりたくさんの欠陥が含まれております今後変更のの余地は大いにある。一つの考え方として提示したまでであると考えていただきたい。

受験について

現代文や英語長文を解くことは何を求められているのか。現代文や英語長文で正解を得ようと思えばもちろん設問に忠実に答える必要がある。暴論を言ってしまえば別に内容が理解できていなくてもその設問が分かればいい訳である。

入試は問題に正解することが前提である。つまり、敵が設問として存在しており、そこで勝負をかけられるかが肝だと思う。ここで言いたいことは、問題ありきの入試への向き合い方として、問題を先に読み、ある程度で何を問われるかを知っておくことは定石ではないかと思うわけである。本文理解より前に解くことに注力すべきである。もちろん、内容を理解できればそれが一番いいのは言うまでもないことである。しかし、実際には、全く文章が分からなくても解けなければならないわけで、それならば始めからゴールを知りながら、なんとかその設問に関わるところに注力して問題に立ち向かえれば最低限のことはできていると思う。どうだろうか?極論すぎるのだろうか?

 

受験期の考え方です。