哲本哲思

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第二回 未知なる憧れの場所

文章の最後に「私的ギャンブル論」という大学の講義を開けそうな私論が入り込んでいいる。

全1115字。

 

今日が記念すべき第一回。そこは、中学の頃からのめりこんだ「遊戯」の通が通い詰める場所なのである。ただ、さらなる通はそこを利用しないと聞いた。マンションが決闘の場所になることがあるからである。思い返せば、私もマンション(アパート)で集まってアナログで前時代的な「卓」を4人で囲んでいるではないか。それも深夜にも及ぶ「卓」を。

しかし、私が求める決闘を求め得ることができるのは通が通いつめる「そこ」だけなのである。レートが脳裏によぎり、勝負をも左右してしまう。そんなヒリヒリするような精神状態で決闘することを求めているのである。

 

アルバイトの出前先であったことが、今日の第一回目を呼び込んだのである。勿論私が決闘の主体にはなり得なかった。しかし、未知なる憧れの「そこ」の扉を開けたときの緊張感は私ごときの語彙力では当然描写し得ないほどであった。タバコの煙と吸い殻が乱雑に置かれていた。一体「そこ」でどれだけ打っていたのか、と疑問に感じられるほど、精神安定剤のタバコが乱雑に吸い殻に積み上げられているほどであった。

 

四人の視線は卓に集まり無言のプレッシャーがジリジリと、その決闘に無関係な配達員の私に迫りくるようであった。

 

ただ、当然ながら、次の出前先に急がなければならないので、その勝負を見届けることは出来なかった。

 

麻雀、雀荘は特別な魅力を私に感じさせる。雀荘で行われる賭け麻雀がそんなに楽しいかと聞かれれば私はいつもこのように答えることになるだろう。パチンコや競馬、競艇などギャンブル全般に言える事であろう。「お金を「獲得」することに面白さはそこまでない。面白さの根源は「欠如」である。欠如が生む緊張感なのである。掛けたお金と希望が欠如することとの闘い。失うことに対する防衛本能たるやすごい。その欠如が判断を鈍らせ、誤りに導くこともある。大げさに言いすぎだが「死線」を潜り抜けるような気分を求めているにすぎないのである。最後に、「獲得」ではない、「欠如」との闘いに面白さがあると言いたい。超実力の世界が生む偶然もまた面白さのスパイスである。」と。時に不条理に、一瞬で失うから面白いのである。

 

そんな戦いが繰り広げられる雀荘は何とも魅力的である。四人の「死線」のくぐり合いが直に戦うわけだからである。それが対人ギャンブルの最大の魅力で、麻雀が打ち手の心に住み着き、一生手放すことのできない遊戯と化す要因だと思う。

 

私にとって、麻雀牌がぶつかり合う音は、時に風鈴のような身体を「冷やす」音色で、時にはストーブのような灼熱の「熱風」を身体に送り込む。

 

獲得のためのギャンブルはやめたほうが良い。「欠如」とのせめぎ合いを楽しむのがギャンブルなのだから。