哲本哲思

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連投10日目

あるある言います。文房具編。

①消しゴムを最後まで使える人いない。そもそも小さくなった消しゴム無くしがち。

②小さくなった鉛筆をコンパスに使うとか、色々理由をつけて残しておくけどだいたい使わなくて大量にたまりがち。

③シャーペンの芯のストックが少なくなって、芯のケースに入れて残しておくのは気が引けるから、一気にシャーペンに全部突っ込もうとするが2、3本入らなくて結局芯のケースに入れて残しがち。

④ノートの最初のページはめちゃくちゃ丁寧に書きがち。そして、構成にもこだわるが、結局いつもの慣れた構成に終盤戻りがち。字も汚くなりがち。

⑤受験生が使い切ったボールペンの芯で自信を持とうとして油性ではなくて無くなりやすい水性使いがち。

 

では、本題に入りましょう。

私的高校英語教育論。

私は、4技能に向かっていくのは反対です。現在の動きには反対します。なぜなら、そもそも英会話を先生が教えられるかは疑問であり、英会話教室がやれば良いと思うからである。

また、昨日ニュースで読んだのだが、英語教員になることを希望する学生に留学をさせるというような内容だったが、そもそも政府は費用の問題はをどのように解決するのだろうか。奨学金か?これ以上借金を負わさないでいただきたい。私費で行くことになればかなりお金がいるわけで、かと言って短期では効果があるのかはわからない。この現代において留学は必要なのだろうか?オンライン英会話で低価格でネイティブと話す機会があり、留学してもしなくても英語が使えるかどうかは、本人の意識次第であろう。

外国文化を教えるのはどうするんだ?と言うような批判も想定できるが、外国文化など日本でも十分に学べる。ネットの時代だからだ。また、外国文化を学校で教えてもらったことなど一度たりともない。

使える英語に過度に敏感になっている現代において、英語「教育」とは何かを考える必要があるのだろう。あくまでも高校は教育現場であり、英会話教室ではない。英語を通じて、日本語をもう一度見つめ、言語の違いを認識することで母語も上達するという話も聞いたことがある。きっちりと文法をやり英文解釈をするかつての学習法を実践することはこれらのことを感じるのにもってこいだと考えている。実感もしている。

昨今の入試改革に見える、英語という科目がただの作業科目になりつつある傾向は危惧しなければならないし、日本の教育機関の最高峰である大学が、そのような入試をやらないことを考えれば、過度に情報処理などを入試で問うのは違う気がしている。

大学で使う英語とは、論文を読むためなのではないのか?大学で英会話の授業?TOEICの授業?何をしているの?大学は教育機関であり、就職予備校ではない。論文を読むためには、情報処理偏重ではなく、精読に力を入れた入試を作るべきだろう。国公立二次試験は現にそうなのだから。大学側と政府の求める英語力がまるで反対。逆行するこの状況はいかがなものかと思う。

ただ、今までの意見は、すべて大学入試を受ける立場から考えたものであり、大学入試を受けない者の立場を考慮していないのであまりいい意見とは言えないだろう。

そもそも論として、英語の必要性が叫ばれる世の中であるが本当に英語は等しく全員に必要なのだろうか?

英語を実際に使う人はごく一部であり、その必要性を感じ主体的に学び身につけている。

英語を使えない人の中に、「英語教育がー」という人もいそうだがそれは違う。本人のやる気次第では学べる時代であり言い訳に過ぎない。

なぜ英語が必要なのだろうか?英語を日本で使うべきときが来るからか?それなら、中国語をやったほうが良いだろう。日本語を禁止されるような事態はおそらく日本が侵略されたとき。ならば、それに備えて中国語ではないか?

日本が過去のように和訳や英作文を重視した入試に戻ることを期待するばかりである。量をこなすだけの無味乾燥な入試になんの意味があろうか。英語教育の必要性を考えさせられます。ちなみに、私は英語は好きです。