哲本哲思

読者の方々にあらゆる情報をお伝えいたします。

エッセイ(4)小さな戦い?いえいえ、決死の覚悟で挑んでいるのです

その時はいつも何の前触れもなく突然にやってくるのである。きっかけがあるとしてもそれは遠くでかすかに聞こえる「音」だけである。

私は、”そいつ”が前方からやってくるのを見るやいなや、何倍もの重力を感じ、天気すらも漆黒で嵐の前触れのような様子に変わったかのように感じるのである。しかし、それがどうやら私の周辺、半径1メートルくらいの範囲だけらしいのだ。その場に居合わせた当人である私は、その漆黒の空をまとった様子は、絶対に私だけではなく、各地でゲリラ的に起きていようと顔もしれぬ誰かの共感を得ようと脳内で必死に問うた。私「この状況、正常じゃないよな…?ゲリラ豪雨来てるよな…?」それに対してもう一人のかろうじて理性のある私「その文を反語にしたのがそう、事実や。それどころか、普通、癒やし的活動で癒やし的存在や」

それでも地球は回る。前方からこちらのことなどお構いなしに、いつもの規定のルートを通るのだから当たり前と言わんばかりに”そいつ”はやってくるのだ。そして、必ず、”同伴者”がいる。その”同伴者”は私と同じ生物であるにも関わらず、”同伴しているもの”と楽しそうにこちらに向かってくる。そして、ついにはこちらに挨拶をかまし、時には、世間話さえ繰り出してくるのだ。どうやら、こちらとあちらでは、学生にとっての同じ平日でも月曜日と金曜日くらいに心持ちが違うらしい。こちらにとっては死活問題。あちらにとっては心躍る瞬間なのだろう。

そんな”やつら”が目の前に来る時、私は決まって願う。「どうか、目の前で立ち止まりませんように。何事もなく終わりますように。」私は、必死に何度も、強く、強く願う。資格試験の合格発表を見るときのように。

そんな願いとは裏腹に、何事もなく進むこともあまり多くはない。赤い布を見た”闘牛”とあまりにも朗らかな表情をした”同伴者”はやってくるのだ。私は、そんなに赤く見えるのか?まさに、猪突猛進。この四字熟語を正しく使う例はこの他にあるのか?対して私はいかにして逆の歩道に移ろうかとあらゆる可能性と方法を思案する。そんなことなど”闘牛”には関係がない。血気盛んな闘牛は赤く見えるらしい私に向かってくる。負けず私は決まってこう考えてしまう。理性がそこにはまだ微量ながら存在していたのだ。(「このまま逃げるような態度を取るのは、あの朗らかでなんとも言えぬ優しそうな笑顔をした”同伴者”が嫌な思いをしてしまうのではないか?」)

そんな思考を巡らせながらいつも私はその”闘牛”と同伴者との絶妙な距離を探し求めその場をなんとかやり過ごすのだ。

「どうか、何事も起きませんように」

後日談。

人知れず格闘を繰り広げる”闘牛”と私にはあるルールが存在する。”闘牛”には行動制限があると言うハンデがあるということだ。”やつ”が超えられぬ壁が。だが…。それがどうした。そんなハンデなど決闘の幕が上がれば関係ない。なぜなら、私にハンデを考慮するほどの状況判断能力と余裕は”やつ”と対峙した途端失われるからだ。

明日は赤い服はやめておこう。

エッセイ(3)雪も雪とて気まぐれに我々のもとに降ってくるのではない

雪もまた自然の摂理と、ある種契約を結んだ上で我々の前に舞い降りてくるのだ。水蒸気が大気中の塵とくっついて降りてくるただそれだけのことではあるが。

 

そして、彼らは任務を全うしてゆく。時には暑さに耐え何重もの層となり一致団結し、見るものを魅了し、冬の訪れを告げる。雪が降り始めるたびに私自身、毎年毎年「あ〜!雪降った〜」と心の中で保育園児のような心持ちになってしまう。これは、雪の持つ力ではないか。雪は一瞬の間無垢で何物にも心躍らせたあの時に戻らせてくれる。

 

しかし、やりすぎは何事にもマイナスだ。豪雪地帯の者にとっては雪など煩わしいものでしかないのかもしれない。

 

そんな雪は私達雪の少ない地域の者にとっては、「恋」を連想させる。いかにもドラマに出てきそうな幻想的な場所を作り出し、その場の二人のためのとっておきの雰囲気を提供する。時に、ロマンチックな場を作り、時に、切ない雰囲気を作り出す。

 

ほっとけば融けてしまう、そんな雪の刹那的な存在と、一面をどこまでも白く埋め尽くすことがどうも幻想的な雰囲気を生み出しているのだろうか。

 

この雪が融ければ春の訪れを感じることになるだろうか?

 

来春の桜はあなたにとってどんな桜ですか?私には特別な桜になりそうです。

エッセイ(2)言葉の力

言葉には力がある。つくづくそう思うのである。特に、最近。それは、人との繋がりがかつてとは比べ物にならないほど激減したこの状況だからかもしれない。見知らぬ人のある言葉、ふとかけられたその言葉に助けられ、勇気づけられ、もう一歩頑張ってみようと思うことがよくあるのだ。そして、それは、自分だけではないはずだ、と思い伝えるようにしている。

 

コンビニでの店員の方へのお礼。飲食店での店員の方へのお礼。声をかけてくれる友達へのお礼。感謝が中心ではあるが伝えるようにしている。

 

このような感謝を伝えることを意識してするようになったのはある友達が言っていたことも影響している。こう言っていた。「バイトして思ったけどお礼言われたら嬉しい」この言葉がどうも自分の中に鮮烈な感じを残した。学校や両親に当たり前に教えられたことを思い出させてくれた。

 

また、こんな例もある。「私は、どんなに不可能と言われても挑戦する。ただ、挑戦したいから」このような文章をふと見た。誰とも知らぬ人の文章である。なぜかは、わからないが背中を押された。

 

言葉には力がある。使い方次第で誰かを助けることができる。しかし、反対に傷つけることもできてしまうのだ。もちろん、この読者の方には前者を目指してもらいたいのである。

 

私も人を勇気づけられたり、心の拠り所になれる文章を書きたい。

 

次回に続く。

エッセイ(1)お笑い芸人

時に、不可能と思いながらも脳裏に浮かぶ夢や自分の姿を想像してしまうことはないだろうか?それが、私の場合は、「芸人」だった。

 

芸人になることはおそらく、いや、万が一、いや、億に一もないのだが、テレビやyoutubeを通して芸人の活躍を見るとなんだか憧れる。とりわけ、憧れるのは漫才やコントをしている姿だ。

 

では、なぜ私が漫才やコントをする芸人に惹かれるのか?

 

それは、前回に繋がるところではあるが、聴衆を笑顔にしているからだ。聴衆を笑顔にさせることが、まさに、芸人の仕事だ。そんな仕事に憧れる。

 

あるフレーズを聞き、あるコントを見るだけで笑顔になる。どんなにマイナスな感情だろうと関係ない。どんなに、救われたことか。

 

そこで、私は芸人にはなれないが、「芸人」になりきっている。傍から見れば痛いやつに見えるかもしれないが、会話の相手を笑顔にしたい、その一心でボケやツッコミに日常会話で挑戦する。もちろん、スベることも多いが、極たまに、笑い誘い、笑い声が出ることが私にも来る。その一瞬が何よりも嬉しい。何にも変えがたい快感である。

 

「芸人」になりきることを今後も続けるつもりだ。素人ながらも、芸人のネタからインスパイアを受けながら笑いのセンスを磨いていこうと思う。

 

目の前に現れる笑顔の為に。

受験結果のご報告と今後の活動予定

今回の受験での結果を報告したいと思います。

単刀直入に言うと「失敗」と言えます。第一志望には合格できなかった。周りの人はほとんどの人が良かったと言ってくれたが、自分としては失敗だと感じている。ただ、納得していないわけではない。自分のこの一年の集大成で行動の結果だと直感できているからである。

 

今後は、受験から少し離れて多岐にわたる分野でのブログ投稿を進めていきたい。

明日以降になるが一日にできるだけ大量の投稿をしていくので気に入った投稿があればどんどん見ていってください!

シリーズ企画を企んでいる。ざっと数えて5シリーズくらいは考えている。毎日同時進行していくのでぜひお楽しみに。

投稿21日目(連投3日目)

今日は、駿台予備学校の講義を受けました。やはり、格が違うかなと思いました。学校の教員とのレベル差があることは当たり前だが、他予備校ともレベルが違う。ちなみに私は、Yゼミナールの世界史を受けている。 

以前も書いたかもしれないが、駿台予備学校の世界史は(駿台予備学校全てに当てはまる一般的なものではない)、特に、私の受講したものだが、因果関係を本当に大切にしているなと感じる。おそらく国公立二次の論述に焦点を当てているからだと思うが。なんと言っても面白い。学問的に。Yゼミナールは笑い系の面白い。私は、こう言ってはなんだが駿台予備学校系の講義が好きである。

私は、学生が勉強が嫌いになり、作業化し、暗記ゲーム化している(特に田舎ではあると思うが)のは、学校教育に、アカデミズムも何もないからだと思っている。面白くない。当たり障りのない説明に、因果関係もしっかり教えてはくれない。教えられないのかもしれないが。多少専門的であっても、なぜなのか?の視点が持てればとても面白くなってくるし、覚えやすい。一部の地域では、特に社会では、専門外科目のことを教えている教員もいる。それでは、その教員も可哀想だし、受ける生徒も可哀想だ。

ここで、提案なのだが、教員(特に高校)をより専門化させられないだろうか?確かに、学生との学校生活を楽しみたい系の教員もいるのだろうが、中には、教えることに力を入れたい教員もいる。その人にとって学校業務は煩わしいものに違いないだろう。

おそらく、それなら、予備校や塾に勤めろと言う反論もあるのだろう。しかし、予備校や塾は現在縮小気味。働き口が少なくなっている。ならば、より専門化された教員業務の中で、予備校や塾の講師を招き、常勤させることはできないのだろうか?おそらく、予備校講師や塾講師の中に学校業務を避けたいという理由で、教えることに専念したいという理由で、学校を選択しない人もいるのだろう。かく言う私自身も、その口である。クラスの担任をしたい教員はすればいいし、したくない人はしないというように選択制にできないものだろうか?そこは、給与で差をつければ問題はないような気がする。

教員自体の底上げができれば、予備校などに通えない田舎の学生の学力は飛躍することは期待できるだろう。現状として、学校において、満足する受験対策などできない。そもそも、学校教育とは大学生を生む場所ではないのだが。しかし、現状として、田舎の学生が受験対策を学校に頼らざるを得ない状況もある。受験に対して無知な先生が、付け焼き刃で対策講義をしたところで意味は皆無なわけで、被害者は学生である。

受験と学校教育の関係は難しい問題をはらんでいると言えるだろう。

 

投稿20日目(連投2日目)

今日は、以前紹介した長倉顕太さんにインスピレーションを受けて感じたことを書いていきます。

テーマ: 非常識を常識にする

まず、前提として、これは影響力を高めて自分の考えを浸透させようと言うような話ではない。

常識とはどのよう形成されていくのだろうか?私が思うに、環境に依存せざるを得ないと思っている。当たり前のことかもしれない。

例えば、周りの人が全員東大志望の学校において、東大を志望することは当たり前だろう。しかし、年に一人か二人しか東大に合格しない学校では、東大を志望することは大半の人にとって非常識だ。これは、まさしく、環境が常識を作っている例だ。

何を言いたいかと言うと、夢や目標を達成するためには環境をまず先に作ってしまうことが一番最善なのではないか?と思うのである。自分の当たり前のレベルを無理矢理にでも引き上げることで、以前の常識が非常識になり、高い次元での常識が、自分の常識になる。そうすれば、自ずと以前とは異なる結果が出るのは自明であろう。

受験生にとっても応用できると思う。進学校でなくとも、進学校のような雰囲気を作れば、その当たり前が自分の当たり前になる。どのようにするのか?これは、宅浪をしていて、周りとの比較がないために盲目になりがちな私自身にも当てはまる。

Twitterで周りの環境をアップデートすればいいのである。進学校では、成績優秀は当たり前。難関大志望も当たり前。ならば、その人たちをフォローすればいいのである。ただ、闇雲にフォローしても意味がない。Twitterでは、自分の模試の成績を承認欲求を満たすために投稿している輩がわんさかいる。その輩たちは、例外なく成績が抜群に良い。この輩たちをフォローしていけばいいのである。模試のたびに進学校の当たり前を突きつけられ、自分の常識がアップデートされていくだろう。

さぁ実践してみよう。

環境を変えることの意味は、おそらく、常識を変えること。

環境のせいにするのではなく、求める常識を持つ環境、コミュニティに所属すること、どんどん変えていくことが大切なのだろう。

繋がりやすくなったこの世でこの手は使わない手はないのではないだろうか?

 

既存の常識を非常識に。まだ見ぬ非常識を常識に。

 

最後に、私のモットーを紹介しよう。

「我が人生に革命を」