哲本哲思

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選書について

時間が有限であることは誰の目にも明らかである。ただ、「目にも明らか」であるかは議論の余地はあるかもしれないのだが…。時間を目に見える対象とは捉えないので、「目にも明らか」というのは、少々強引な表現なのかもしれない。時間は有限であることは間違いはない。人間には死という誰しもが持つゴールを迎えることになっているのだから。

そんなことはさておき、時間が有限であるとして話を進めたい。そして、話は読書についてである。とりわけここでは、選書について、それも専門書の選書について書いていくことにする。前置きとして現状を述べておきたい。

私は、大学生をしており、比較的に時間がある身分である。また、人生の夏休みと言われるような、「自由」を持った身分であることには違いない。しかしながら、昨今のコロナ禍の大学事情によって大学はオンライン中心かつ課題を課す中で大学教育を進める方針を取っている。全講義において課題が出されているので割と膨大な量である。大学生であれば共感していただけるであろう。

そんな状況である私は、入学当初、大学では読書に勤しもうと考えた。とにかく、莫大な量の読書をしてやろうと意気揚々と入学してきたのである。しかし、意外と時間がないことに気付いた。社会人の方からすれば「舐めるな!」と言われてもおかしくないのだが、実際に時間が足りないのである。タイムマネジメントにも欠点があるとは言えよう。

そこで、すべての本を読むことはできない。読むべき本、読む価値のある本を選び取り、読むことができなければ、読書がある種の徒労に終わる瞬間が訪れてしまうと思ったのである。では、どのようにすれば読むべき本、価値ある本を選び取ることができるのか。その可能性を高められるのかを考えてみた。

いわゆる知性主義的な立場を取ることになってしまうのだが、私は著者の経歴を重視して選ぶことに他ならないと考えている。とりわけ、専門書であれば基本であるであろう。何かについて論じる本において、その議論の議題が著者の専門分野であるか否かを判断することが大切だと考えるのである。

もう一つの方法として、評価の定まっていない本を読まないということである。換言するなら、新刊には手を出さないということだ。確かに、新刊がすべて評価されないとは一概には言えない。また、他人の評価基準の中で自分のその本に対する評価を定めるのはどうなのか、と言われれば反論することはできないのは事実である。しかし、一般に良いとされ、長い年月をかけて残された本というのは一読の価値があると思うのである。その本が読みつがれてきた歴史やその本をきっかけに社会が動いた等の背景があるからである。

ただ、私のような選書の仕方では、新しい本に手が出しづらく、流行に乗ることは極めて困難であることは事実である。

いわゆる古典を読むことによって過去の出来事、思考法、社会構造等を学ぶことができるのではないだろうか。古典に馴染みがない者にとっては難易度は高い。かく言う私も古典に馴染みはなく、いつも辞書を片手に、ちまちまと読むことしかできない。そこで、友人なりとグループで読書に取り組む、読書会の存在は大きいと思う。ある種の強制力が働き、また、他人が自分の読書の手助けとなることもある。だから、私は、読書会なるものを作りたいと考えている。オンライン読書会というのもなかなかに面白そうではある。